岐阜大学病院の150年のあゆみ


創立150周年を記念しまして、
広報誌「うぶね」にて当院の歴史を
全6回シリーズで連載中です。(随時更新)

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岐阜大学医学部附属病院のルーツは、1875(明治8)年8月、岐阜県公立病院と附属医学校が岐阜市西野町(現本願寺岐阜別院)に開設されたことに始まります。
翌年、岐阜市司町(現岐阜市役所・みんなの森 ぎふメディアコスモス)に移転。その後、1882(明治15)年に岐阜県医学校附属病院に改称しましたが、その4年後医学校が廃校となったため岐阜県病院として独立しました。



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岐大病院の前身である岐阜県病院は、地域の皆様からは長らく「県病院」の呼び名で親しまれましたが、1944年、岐阜大学医学部の前身である岐阜県立女子医学専門学校の附属病院となりました。
写真は戦前の姿ですが、1945年7月9日の岐阜空襲により、ほぼ全ての建物が焼失してしまいます。
焼け野原となった岐阜の街とともに甚大な被害を受けた附属病院は、終戦後の翌年、2度の復旧工事を経て新校舎にて再出発することとなります。



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戦後の学制改革によって、戦前からの旧制学校は整理廃止されることとなりました。廃校の危機に立たされた岐阜県立女子医学専門学校(岐阜大学医学部の前身)は存亡をかけて医科大学への昇格に尽力し、1954(昭和29)年、岐阜県立医科大学となりました。
昇格設置も間もなく、県財政の圧迫という面から国立移管の機運が高まります。県・県立医科大・岐阜大の三者が一丸となって文部省(現 文部科学省)へ交渉を重ね、1964(昭和39年)年に国立への移管が正式に決定しました。

国立移管と時期を同じくして、岐阜大学では各地に散らばる学部を1キャンパスに統合する計画が進んでいました(1960年代)。しかしながら当時の状況では、移転完了に最低でも10年を要すると見込まれ、現状設備の整備の方が喫緊であるとの判断から、岐阜大学の移転統合は医学部・附属病院を除いて行われることとなりました。
移転は見送られましたが、司町地区の整備・増築は着々と進み、岐阜大学病院は岐阜市の中心部にて、地域の要望に応えるべく発展していきました。

【参考】岐阜大学統合移転記念誌(外部リンク)

明治時代より岐阜市司町の地で地域医療を支えてきた当院でしたが、建物の老朽化や手狭な土地が、先端設備の導入等において大きな障壁となっていました。様々な検討がされた結果、最終的に現在の柳戸キャンパスへの統合移転が1992年に決定しました。

工事は2000年に着工し、2004年に新病院が開院。
岐阜大学の第一次統合から20年を経て、晴れて全学部が1つのキャンパスに集結しました。さらに、2004年は国立大学法人化の年でもあり、この移転は本学の文部科学省時代における、最後の大事業でもありました。


すべての学部が柳戸キャンパスに集まりました!


現在の柳戸キャンパスに新築移転をしたのが、2004年。岐阜大学医学部附属病院はこの地で、新たな歩みを始めました。以降、医療技術の進歩とともに、社会や医療のニーズに応えるべく、体制の強化と機能の充実を重ねてきました。

2006年
厚生労働省より「高度救命救急センター」に認定、「都道府県がん診療連携拠点病院」に指定されました。

2011年
岐阜県ドクターヘリ運航開始。地域に貢献する岐阜大学病院の象徴として、
多くの命を救ってきています。
2013年
北診療棟を開設。光学医療診療部や化学療法室が大幅に拡充、
診療体制がさらに強化されました。

2022年
新たな手術棟が完成。手術室が17室へ増設されたことにより、
より高度かつ多様な手術への対応が可能となりました。

「地域の皆様に安心でよりよい医療を提供をすること」。これは、明治8年の創立以来150年にわたり受け継がれてきた当院の想いと使命です。岐阜大学医学部附属病院は、これからも地域とともに歩み続ける大学病院として、医療の未来を支えてまいります。

当院のより詳しい沿革はこちら。